2010年12月8日水曜日

ダイアローグ研究会講義録「レオ・シラードの思想と生涯」田口ランディ

ダイアローグ研究会第2回講義録です。
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1部:スピーカである田口さんの講義
2部:参加者との討議の模様

ダイアローグ研究会講義録
「レオ・シラードの思想と生涯」
田口ランディ

レオ・シラード 1898年~1964年

ハンガリーの首都ブタペストに生まれる。東欧系ユダヤ人物理学者。核連鎖反応のアイデアを得て、原子爆弾開発のきっかけをつくった人物として知られる。シラードはナチスドイツが先に原子爆弾を保有することを危惧し、アインシュタインを説得し、ルーズベルト大統領に核開発に関する行政措置を促す信書を送ったことで有名。だが、シラードの思惑ははずれて核開発は完全な軍主導となり、結果としてヒロシマとナガサキの民間人に対して、無警告で原爆が投下されたことに関して、シラードは激しく怒りと絶望と責任を感じた。戦後は独自のロビー活動を展開、米ソが対立する冷戦のさなかで、米ソ間のホットラインの設置に尽力、国際社会に対して軍縮を訴える政治的な発言を続けた。しかし、当時の政治状況のなかでシラードの発言や行動は、しばしば、そのユニークさゆえに困惑や嘲笑を招くこともあった。

シラードは奇妙な人物であり、知れば知るほど彼への謎は深まる。ここで私がお話しすることは、とても個人的な私の解釈であることをまずお断りしておく。私は作家であるので、事実をもとに話しているが私自身のかなり過剰なイマジネーションが働いていると思って聞いてほしい。

シラードの単純なプロフィールは資料を参考にしてください。時間がないので前段を飛ばして核心の内容に入ろうと思う。シラードは二十世紀の先駆的な科学者だった。たいへんなアイデアマンで、広く多分野の科学者と交流をもっていたが、多くの知人は彼を「変人」と思っていた。とにかく多動で多弁な人だった。外見つまり服装にはまったく気を使わず、誰にたいしてもずけずけとなまりのひどい英語で話しかける。その発言は唐突であり時として相手を困惑させた。それは、彼が、ハンガリー人だったことにも、亡命科学者であったことにも由来しない。彼の持って生まれた個性としか言いようがない。

私はシラードの文献や彼の手紙、友人たちの証言などを読むうちに、シラードは今で言う「広汎性発達障害」だったのではないかと思うに至った。俗に高機能自閉症、アスペルガー症候群と呼ばれる人たちの一人ではなかったのか……と。もちろん本人が亡くなった今、それを確認することは不可能なので、憶測にすぎない。実際に発達障害の専門家たちに彼のプロファイルを読んでもらい意見を聞いたところ「かなり高い可能性」と言われた。

発達障害について、ここで説明している余裕はないが、この脳の機能障害は「障害」という名前がついているものの、私は障害ではなく人間の個性と認識している。彼らはマイノリティであるので一般生活のなかで非常に生きづらさを感じているが、その「生きづらさを感じる」という感じ方が、もうすでに私たちと違う。情報を自分にとって有用な意味に変換するという行為を、私たちは日々しているが、その意味そのものが私たちと違う。彼らは他者から自分がどう見えるかについては頓着しない。自分のなかのルールに従う。ある点では超人的な集中力を発揮したかと思えば、自分の関心のないものに関しては全く興味を示さない。
自分自身の感情や、空腹感などに関しても漠然とした雰囲気でしか理解できないことが多い。悲しんでいないのではない。おなかがへっていないのではない。それが「悲しい」という一般的な意味と結びつきにくい。空腹も、胃のあたりがむかむかしている→それは空腹なのかもしれない、という一般的な意味と結びついていかない。それはあたかも自分に関心がないかのように見える。

シラードがもし、そうであるなら彼の行動は彼にとって自然であり、精力的に見える活動も彼のもてるエネルギーのまっとうな放出だったのかもしれない。そのような視点をあらかじめもって彼の行動を見ていきたい。
なぜかといえば、もし、シラードがそうであるなら、彼にとって簡単なことでも私たちにとって困難である、その、理由がよりはっきりとするからだ。彼らが最も不得意とすることは他人を騙すこと。自己の利益のために他人をおとしめること。二枚舌を使い事態を混乱させること……である。それは彼らの正義ではなく、彼らがそのような行為にまったく意味を見いださないからである。単純にそうすることの有益さがわからない。「皆が良いと思っているなら、そうすればいいだけ」と考える。
それに対して私たちは「いや、それは言うのは簡単だが、行うのは難しい。なぜなら人間はそんなに単純じゃあないからね」などと言う。しかし彼らにはどうして簡単なのに難しいのかさっぱりわからないのである。

なぜ簡単なのに難しいのか。

その理由について私たちは、あたりまえ過ぎて考えない。おおかたの人間の一致した見解だと感じていることが多いのではないか。

また、シラードはダメだと思ったことは諦めが早く、意見の違う相手と「信念」というものを対立させ相手に攻撃的になることはない。なぜなら、目的達成こそが一番重要なポイントであり、自分の信念を誇示したり、自分の名誉とか名声を得ることにも全く興味がないからである。褒められればうれしい……くらいである。これも謙虚なのではなく、単に関心がないのである。それゆえ、他者から見れば情熱的で根気強い博愛主義者に見える。彼にとってはそれが人類を救う一番合理的な方法なのでそうしているにすぎない。彼らはわくわくするが、激しく怒ったり、絶望したりという所作で自身を表現するという回路をたどらない。シラードは率直である。率直であろうとしていたのではなく、ありのままに率直だった。

シラードの言葉
「子供は科学者の心をもって生まれてくる。子供のままだったので科学者になったのである」

第一次大戦の時も、第二次大戦の時も、シラードは彼特有の勘の良さで難を逃れる。思い込みは強いほうだ。直感に従って生きればたくさん失敗もするだろうが、そういうことにあまり興味がない。いまここ、の人である。直感の成功例はわずかだけれど、それは人生を大きく変えてきた。ナチスが台頭してきた当時ドイツにいた彼は、ナチスの危険を友人たちに説いてまわり逃げるようにすすめたが、誰も相手にしなかった。しかたなく、シラードは一人でウィーン行きの汽車に乗った。その翌日からユダヤ人への粛清が始まった。シラードはウィーンで亡命してくる仲間たちの就職斡旋を行ったが自分の就職先は探しておらず、友人たちは「彼は裕福な貴族の出かと思った」と言うほどだ。シラードは数々の業績を残したものの、まったく金銭的には恵まれていなかった。しかし、恵まれていないという自覚もなかったようだ。

シラードはSFファンで、特にSFの父とされたH.G.ウェルズの著書を愛読し、自らもドイツ語翻訳に奔走したほどだ。彼が中性子による核分裂の連鎖反応というアイデアを思いついたきっかけも、ウェルズの小説からだし、その後の世界警察という発想にもウェルズが影響を与えている。すぐれた作家は時として作品で未来を予知してしまうことがある。ウェルズの場合もそうだったのか。
とにかく、シラードはひらめいてしまった。そしてそれを実現すべく行動を起こす。時同じくしてドイツでもオットー.ハーンが二次中性子の放出に成功。もし核エネルギーがナチスの手に渡ったら……。シラードの主観的世界のなかで、一気に核兵器とナチスと人類滅亡が結びついた。

ひらめいてしまったら実行する彼は「原爆によってナチスが世界を征服しないためには、ナチスより早く原爆を作ることだ」という、彼にとって最も合理的と思われる方法を現実化するために行動を起す。
当時から知名度の高かったアインシュタインを説得し、ルーズベルト大統領に宛てて手紙を書かせる。多くの書物ではこの手紙がきっかけで大統領が原爆製作に乗り出したと思われているが、この時、大統領は手紙の内容を理解しておらず、大した関心も示さなかった。後にイギリスがユダヤ人亡命科学者による「核兵器製造」のアイデアを提示してきたことが国家プロジェクトの直接的なきっかけだ。とにかく、世界は急に核兵器に向けて動いていた。まるで歴史的な必然のように……だった。


実際にはさまざまな政治的なかけひきがあり、シラードは根気よく手紙を書き送りそれに対応した。そして、核開発が国家プロジェクトになる頃に、シラードは政府からけむたがられるようになった、というのは、この責任者に任命されたリチャード・グローヴズ将軍がシラードを嫌ったからだ。将軍にとっては、甚だしく無礼でわきまえのない亡命ユダヤ人に見えたのだろう。

一九四二年、核兵器製造に向けて「マンハッタン計画」が始動。有能な科学者がロスアラモスの砂漠に集結した。その中心となったのは、ナチスによるユダヤ人狩りを逃れて亡命したユダヤ人科学者たちだった。大戦のさなか、食い詰めた彼らは乞われるままにロスアラモスに集まり、そこで、アウシュビッツ強制収容所と並ぶ二十世紀の負の遺産、原子爆弾の製造に心血をそそいでいったのだ。

マンハッタン計画は軍の指揮下に置かれ、上層部の科学者を除いては個々の受け持ちの研究以外の情報は与えられなかった。徹底的な機密管理が行われ、外部との交流も遮断された。研究所での生活は過酷だった。時は急を要したのだ。戦況が刻々と変化していたからだ。

一亡命科学者であるシラードの立場は弱いものだった。

ちなみにシラードが参加して製造された世界初の原子炉シカゴ・パイルは1942年12月2日に臨界点に達した。


一九四五年四月三〇日。ヒトラー、自殺。
シラードは核エネルギー開発が軍部の主導で動くことに苛立ちと不安を抱えていた。彼には最初から未来のシナリオが読めていた。核エネルギーは人類に新たな可能性をもたらすだろうが、災厄ももたらす。核を生み出す鉱物は世界のごくわずかな地域でしか産出されない。その土地の資源を巡って熾烈な闘いが起こるだろう。もし、核兵器の破壊力が認められれば、大国は競って核製造に取りかかる。そうなったら軍拡競争が起きる。不安が引きがねとなる予防戦争も起きるだろう。原子力の産業利用の管理システムを作らなければ、核製造物質の管理は困難。各国が平和時の原子力利用を控える合意が必要だ。シラードは来るべき各社会に向けて議論しようと提案します。

核に対する暫定委員会は何度か開かれたが、シラードのように戦争終結後の世界を見据えている者はなく、議論はほとんどが核兵器使用に際しての倫理(というにはあまりに逆説的だが)の問題で費やされた。
この時はもう「いかにロシアに脅威を与えるか」ということが、原爆の主題にすりかわっていた。
日本に対して無警告で原爆を落とすのではなく、原爆のデモンストレーションを見せて降伏させる方法はないか? という意見に対して、オッペンハイマーは科学者として実に合理的な見解を述べている。
「事前に日本に警告を発した場合、原爆が不発に終ったらどうなりますか? 
日本軍が原爆搭載機を撃ち落としたら? 原爆の脅威をデモンストレーションで見せるなんて不可能です。それにもし、実演を見ても日本人が降伏しなかったらどうしますか。実際、原爆がどれくらいの人間を殺せるかはまだ未知数です」

結果、日本にとってきわめて重要な三項目が決議された。
・原爆は日本に対して使用する
・攻撃目標は民間居住区に囲まれた軍事施設
・原爆は予告なしで使用する   ※1

この事の成り行きに苛立ったシラードは、無警告の原爆投下に反対する科学者の嘆願書を制作。それをエドワード・テラーに託すが、テラーは「科学者が政治的な発言力をもつのはどうかと思う」とオッペンハイマーに諭され、研究所内の科学者に回覧するのをやめてしまった。


それでもシラードは「無警告による原爆投下」だけは食い止めたいと考え、ついにトルーマン大統領への直訴を断行する。シカゴの六七人の科学者の署名を集める。しかし、グローブズはこの決死の嘆願書の回覧を妨害した。将軍は大統領にこの嘆願書を見せたくはなかったし、見せる必要もないと思っていた。だから、当然のことながら、大統領が嘆願書を見ることはなかったのだ。


一九四五年八月六日原爆投下


一九四五年八月七日付けニューヨーク・タイムス紙に載ったトルーマン大統領の声明。「われわれは歴史上最大の科学的ギャンブルに二〇億ドルも投じた。そして勝った」※2


シラードが大統領に出した嘆願書は戦後に機密扱いとされた。
政府は科学者に原子爆弾に対して公に議論しないように求めた。それゆえ科学者は口をつぐまざるえなかった。それでシラードは匿名で新聞のインタビューを受けたが、後に名前を出すべきだったと語っている。「闘いは始まったのだ……」と。

1949年ソ連が核実験に成功
東西冷戦体制に突入 核の時代の到来
1950年に共和党議員のマッカーシーが「共産主義者が国務相の職員として勤務している」と告発したのをきっかけに大規模な共産主義者探しが始まり、ソ連のスパイとしてさまざまな人間が捉えられ裁判にかけられていきます。シラードはこの時期は分子生物学に転向し、ほとんど発言らしい発言はしていない。
米ソは競い合うように核実験を始める。

シラードは主観的世界を常に視ている。ソ連に対する脅威と不安からソ連をナチスと同じように扱いロシア人を嫌悪するアメリカの世論に対して疑問をもつ。→ロシアは国益に対して合理的な行動をとっている。であるからして、国家的自殺をとげるような国ではなく交渉と和解の余地がある。

冷戦という対立の構図で、両者の善悪を問うのはナンセンス。私欲にからみとられた両者が国際関係のもつれのなかでお互いを攻撃しあっているのだ。

■シラードの軍縮に関するアイデア※3
■シラードの考え
「武装解除と平和の問題」
二つの超大国を政治的な和解に近づけるために必要なインセンティブとは、核による全滅の危険性の認識(核兵器は人類を滅亡させうる)と、軍備費の軽減による莫大な経済効果を立証すること。

軍備増強によって多大な利益を得ている産業に保証を与える仕組みの構築。すべての軍事産業を平和的産業に転換していく。その補償を現行の軍事費から捻出。数年に渡りその補償を受けつつ、軍事産業関係者は新しいキャリアに向けてトレーニングを進める。→それによる国内生活水準の向上、国益の増加→軍縮は儲かる!

「国家安全保障について」
軍備縮小は両国の強い政治的合意のもとで進めなければまったく無意味。超大国は国益とイデオロギーによって、影響力を行使しようとする。国際的安定のために、国連というクッションをどう機能させるかが問題。小国に対して大国が予測不可能な形で単独干渉する現状を、どう抑えていくか。
→小国が自分たちの地域統治できる能力を保ちながら大国を牽制できる、柔軟で非中央集権的な国際機構の提案→さまざまな国によって管理される地域警察軍を作る
→そのためには米ソの和解が必要
地球全体の国々のより大きな国益のために!
▲この考え方は当時はまったく相手にされなかった→非現実的すぎる!
多くの現実的反論に対して、シラードは沈黙。

「まったく新しい思考が必要。人は変化を拒む。どうやったら複雑な問題を長期的に妥協やトレードオフに持ち込むか?」
「急いですべての争点を交渉してもしょうがない。想定したステージを少しずつ上がり、移行のショックをやわらげるためにゆっくりと、最終的なゴールに近づいていくこと」
「リーダーは遠い未来のことを交渉したがらない。政治的同意はいつでも取り下げられることにしておく。同意が本質的に健全であるなら、合意の実行は両サイドにとって利益になることは間違いない。そうでなければ、いかなる合意も現実的でない」
「理想論ではないポジティブなインセンティブ」

軍縮のための三原則
1.両国の兵器はおおむね対等か均等にすること
2.両国は裏切りに対する保険として核兵器を一定の割合で持ち続けること
3.武装軍縮のそれぞれの段階において、両国の軍事設備に関する機密を少なくすることに合意すること。裏切りの可能性や恐れをほのめかす秘密は、和平プロセスを阻害する。→各国の市民や科学者による核の完全なる監視システムを作る→密告に刑事責任は問わず、報償金を与える。
「たとえ現実的な世界が理想とする世界とズレていたとしても、長期的なビジョンを描くことは変化のプログラムのために必要である。そして、一歩ずつ実行すること」

戦後にシラードが提案した数々のアイデア※6
◎冷戦下、アメリカ人の現状認識と他者理解を促すために、ロシア人の立場に立って双方陣営によって行われる市民ディベートの開催を企画→実現しなかった
◎1955年アインシュタインとバートランド・ラッセルによる原子力をめぐる国際会議に参加。論考を発表。→だがこの会議に問題提起し批准を一人だけ棄権
◎1959年フルチショフに直接信書を送り、広範囲のロシア人とアメリカ人科学者が出会う場を作っていく計画を提案。それから4年間、フルチショフと交流。
◎1960年、ニューヨークに来たフルチショフと会談。このときホワイトハウスとクレムリンをつなぐホットラインの設置を提案する。また、より具体的に和平にむけてのビジョンを語るが、フルシチョフにはねのけられる。だが、シラードのユーモアある対話と和平への情熱は通じ、二人は後も頻繁にやりとりをするようになり、また、非公式な科学者会議に関してもゴーサインをもらった。
◎シラードはアメリカの優秀なリベラルな政治家や科学者たちに声をかけ、軍縮を目指す「エンジェル・プロジェクト」を始動。キッシンジャーもその一人。国際コミュニケーションの必要性を痛感している人たちを集っていった。エンジェルとは支援者という意味。
◎1961年キューバに対するアメリカ政府の攻撃に怒り、ケネディ大統領に嘆願書を送る。この手紙によってシラードの立場は微妙になる。
◎1962年キューバ危機のさなかにもフルチショフと手紙を交換。この時、フルチショフはエンジェル・プロジェクトの必要性を強調。シラードも実現を予感するも、ケネディ政権の反発によって失敗。
◎1963年コミュニケーションの回路ができなければ、世界は軍拡の悪循環に陥る。国際問題を政府だけにまかせておいてはいけない。幅広い民間からのサポートが必要だ。→シラードは草の根の支援者たちをさぐり、政治的な影響力をもつようにしようとした。→国際コミュニケーションの必要性をアメリカ全土に訴える講演ツアーに乗り出す
→The Council for a Livable World(住みよい社会への協議会)を設立。冷戦から抜け出すために寄付金を募り、そうしたビジョンをもつ政治家を支援。この団体が支援した政治家ジョージ・マクガヴァンは当選した。
シラードは分子生物学の分野で、、無生物に生物モデルをあてはめる実験をした。「マックスウェルの悪魔」と呼ばれる概念に独自の洞察を加えた。エントロピーと情報の間に関係があることの示唆した。当時としては先駆的なことだった。この考えは後に量子力学など21世紀の最先端の研究につながっていく。
彼は物理学者であり、20世紀の科学者がそうであったように唯物論的であった。しかし、彼の最後の論文は「記憶と想起」というタイトルがつけられている。それを読んでいないので、私はただ自分の印象でしか語ることができないが、彼は「記憶=情報」というものが、物質と意識との接点に存在することを直感していたのではないか。
最晩年のインタビューに答えて
「宗教はもっていないが、私は信心深い人間だと思う。人生には生きる意味がある……」
「生きる意味とは……」
「I will say that life has a meaning if there are thing which are worth ding for.」
なぜ人を殺してはいけないか。
それは、人は死ぬ価値のある人生を生きているから。
死ぬ価値のある人生を生きている人間を、殺すことの罪。
生物の内部で起こっているさまざまなシステムのなかでもとりわけ意識活動は謎であり、私たちの肉体という場を接点にして物質世界と意味という抽象的世界が交叉している。シラードは謎に充ちた生命現象を通して、物質と精神という問いに挑んだと思う。その過程でなぜ核物理学から原爆製造へと至ってしまったのかは、彼自身ですら答えを出すことはできないだろう。

だが、シラードの親友であったパスツール研究所の所長、ジャック・モノー(「偶然と必然」の著者)がシラードについてこう語っている。
「彼は彼自身の知性に、すなわち脳の中に存在するこれらの神秘的創造的認識的想像的機構に魅了されたのだ」と。※4
ここで、モノーがシラードについて語っている言葉はとても奥深い。つまり、モノーはマックスウェルの悪魔……情報を解釈するのは生命であって、それは物理学とは分けて考えるべきものであることを示唆していると思える。「マックス・ウェルデモンは物理学には存在しない。結局、生物学の対象となる物理学者自身以外にはね」と語っているのだから。※5
つまり、分子構造から生物の神秘を解き明かすという分子生物学を唯物論的につきつめたところで、生命とはなにかをつきとめることはできない、と。
原爆というものを生み出した男が、学問の問題として選んでいたのは彼自身の存在の解明であったかもしれない。

■参考・引用文献
「シラードの証言」みすず書房 伏見康治.伏見諭訳 ※3※4※5※6
「ヒロシマを壊滅させた男オッペンハイマー」白水社 池澤夏樹訳※1
「イルカ放送」みすず書房
Michael Bess, REALISM, UTOPIA, AND THE MUSHROOM CLOUD: Four Activist Intellectuals and Their Strategies for Peace, 1945-1989 ※2

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